Незабываемое путешествие в Японию

私は、1940年生まれです。
山口県豊浦郡(現在の下関市)と言う地方に先祖代々、受け継いで来た故郷を持ちます。この140年間で日本の総理大臣が5人出た地域でもあります。父の仕事の関係で大阪で生まれ18歳まで大阪で育ちました。スポーツはサッカーを中心に学生時代を過ごしました。
早稲田大学第2政治経済学部を卒業しました。(現在も日本の政治家の多くが輩出している学部でも御座います。)大学時代は、日本サッカーの基礎を作ったメンバーの一人として歴史に残っているようです。現在の日本サッカー協会の名誉会長を含め重鎮達は、私がサッカーの現役時代のチームメイトです。


1945年8月、日本は第2次世界大戦で敗戦を迎え、日本の国土は米軍によって焼き尽くされてしまい、苦しい時代を迎えました。食糧も物資も何も無い時代の中で私は何とか幼少時代を過ごす事が出来ました。1950年に朝鮮戦争が始まり、軍需景気が到来しました。景気も拡大傾向となり、荒れ果てた国土が次第に整備されて行きました。そのような時代の中で1955年には造船景気が始まり、世界水準では高性能であった為、受注が世界から舞い込むようになりそれに付随して鉄鋼生産が強烈な右肩上がりの売上を示すようになって行きました。そのような時代背景の中、私は大学を卒業する事になりました。


私の父が1945年以降、欧米の高級自動車を輸入し、日本国内の比較的に所得が多い方々に販売していました。私は卒業後、ダンロップと言う企業で3年間勤務し、父の会社に入社し、親子で自動車販売を拡大して行きました。父は、まだ、日本に存在して居なかった自動車関連の組合や協会を各地で設立し、日本の中古自動車業界の父と呼ばれるようになっていました。
このような活動が出来たのも父の存在と、がむしゃらに親子で頑張ったからと思います。私も売上を伸ばして、親子両輪で事業展開を進めて参りました。しかし、父の急な他界によって、父がおこなっていた公的な活動を引受け、休み無く、早朝~深夜まで体を使い体力の限界まで働き、事業推進に邁進して行きました。


1960年代はトヨタ・ニッサン・ホンダ・マツダ等の日本企業も苦しみの中から開発に力を入れ売上も伸びて行きました。私も全面的にこれら企業を後押しして、日本製自動車の販売に力を注ぎました。
この60年代は、日本の高度成長時代の基礎とも言われていますが、まさにその基礎を作る時代に汗を多く流したなと思いだされます。1964年、日本は高速鉄道専用線(新幹線)の工事及び部分開通エリアの営業運転・高速道路の建設と部分開通したところから開通させるやり方を繰り返しながら各、路線を広げて行きました。

1950年代に白黒テレビが普及し始め、1968年のメキシコオリンピックを境に、カラーテレビが爆発的に普及し始めました。冷蔵庫・洗濯機・音響機器・精密機器・医療機器・医薬品・カメラ・アパレル・高級レストランや高級ホテルに至るまで全体的に販売が充実して行きました。高速鉄道や高速道路の開通で旅行も盛んになり旅行会社が企画する外国旅行から国内旅行に至るまで、たくさんの人々が旅行に出かけ、各旅行会社は売上が急上昇して行き、このような時代背景の波に乗り、私も景気拡大と共に売上を伸ばして行く事が出来ました。

1980年代に入り、日本の基幹産業は造船から自動車産業に変わってからの事ではありますが、名古屋の服部太氏(父の旧友)と連携し現在の自動車オークションシステムの基礎を作って行きました。現在、日本国内に於ける大型オークション会場は各地に広がり、一般的なビジネススタイルで運営されるところまでになりました。小さな組織からスタートしましたが、苦しい時期も乗り越え 東証一部上場企業まで成長する事が出来ました。
2014年6月に代表取締役を退任し、以後2年間は相談役として後進の指導にあたりましたが、2016年6月に完全引退を致しました。

2015年11月23日にロシア政府が、私にロシア連邦名誉領事の称号を与える決定をされましたが、まだ相談役の立場でしたので、保留にすべく申し入れをさせて頂きました。
翌年(2016年)6月に引退をした上で、7月13日に駐日ロシア大使館に於いて、ロシア連邦名誉領事の拝命を受けました。同日、日本外務省へも拝命を受けた事を知らせる為、御挨拶に伺いました。

この数年の出来事としては、和食をロシアへ普及させる為、ロシア国内にて試食会の開催を繰り返し、ゴミリサイクルの新たな展開の為、ロシアの行政機関との打合せを重ねています。
又、心の文化交流として、112年前に日本海海戦が対馬海峡で繰り広げられ、以後、帝政ロシアは崩壊し、ソビエトが確立しました。そのソビエトも1991年12月25日に崩壊し、新たな民主主義国家 ロシアが確立され、現在を迎えています。
私は、112年前に対馬海戦で敗れたロシア海軍の戦死者の多くが流れ着いた福岡県宗像市大島で海域が見渡せる良い台地を購入し、造成工事の上で2013年11月3日に対馬海戦 慰霊碑・建立を致しました。駐日ロシア全権大使始め、多くの日本の有識者が参列しました。その際に取材された映像がロシア国営放送を通じ、全ロシアへ放送された事は今も記憶に焼き付いています。
2015年11月上旬に、サンクトペテルブルグより、対馬海戦遺族子孫の会メンバー達(中心人物としては、バルティック艦隊司令長官ロジェストビンスキー提督のひ孫)を招待し、対馬・宗像・佐世保・大分県竹田市(海軍中佐 広瀬武夫を奉った広瀬神社)を案内しました。その返礼として、サンクトペテルブルグへ訪問し2016年11月と2017年3月に、バルティック艦隊基地に建立されている慰霊碑に献花させて頂きました。特に、この3月は、日露の文化交流の一環として、日本帝国海軍 連合艦隊司令長官 東郷平八郎元帥のひ孫(東郷家)も同行致しました。この動きを取材した映像が全ロシアに放送されたと聞き及んでいます。


田村文彦

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