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私は、1940年11月生まれの71歳になりました。
日本の山口県と言う地方で生まれました。この140年間で日本の総理大臣が5人出た地域でもあります。
18歳まで大阪で育ち、スポーツはサッカーを中心に学生時代を過ごしました。
早稲田大学第2政治経済学部を卒業しました。(現在も日本の政治家の多くが輩出している学部でも御座います。)
大学時代は、日本サッカーの基礎を作ったメンバーの一人として歴史に残っているようです。
現在の日本サッカー協会の会長を含め重鎮達は、私がサッカーの現役時代のチームメイトです。
1945年8月、日本は第2次世界大戦で敗戦を迎え、日本の国土は米軍によって焼き尽くされてしまい、苦しい時代を迎えました。食糧も物資も何も無い時代の中で私は何とか幼少時代を過ごす事が出来ました。
1950年に朝鮮戦争が始まり、軍需景気が到来しました。景気も拡大傾向となり、荒れ果てた国土が次第に整備されて行きました。そのような時代の中で1955年には造船景気が始まり、世界水準では高性能であった為、受注が世界から舞い込むようになりそれに付随して鉄鋼生産が強烈な右肩上がりの売上を示すようになって行きました。
そのような時代背景の中、私は大学を卒業する事になりました。
私の父が1945年以降、欧米の高級自動車を輸入し、日本国内の比較的に所得が多い方々に販売していました。私はダンロップと言う企業で3年間修業し、父の会社に入り親子で自動車販売を拡大して行きました。父は、まだ、日本に存在して居なかった自動車関連の組合や協会を各地で設立し、日本の中古自動車業界の父と呼ばれるようになっていました。
このような活動が出来たのも父の存在と、がむしゃらに親子で頑張ったからと思います。私も売上を伸ばして、親子両輪で事業展開を進めて参りました。しかし、父の急な他界により、私は父がおこなっていた公的な活動も引受け、休み無く、早朝~深夜まで体を使い体力の限界まで働き、事業推進に邁進して行きました。
1960年代はトヨタ・ニッサン・ホンダ・マツダ等の日本企業も苦しみの中から開発に力を入れ売上も伸びて行きました。私も全面的にこれら企業を後押しして、日本製自動車の販売に力を注ぎました。
1960年代は、日本の高度成長時代の基礎とも言われていますが、まさにその基礎を作る時代に汗を多く流したなと思いだされます。
1964年、日本は高速鉄道専用線の工事及び部分開通エリアの営業運転・高速道路の建設と部分開通したところから開通させるやり方を繰り返しながら各、路線を広げて行きました。
1950年代に白黒テレビが普及し始め、1968年のメキシコオリンピックを境にカラーテレビが爆発的に普及し始めました。冷蔵庫・洗濯機・音響機器・精密機器・医療機器・医薬品・カメラ・アパレル・高級レストランや高級ホテルに至るまで全体的に販売が充実して行きました。
1965年頃より高速鉄道や高速道路の開通で旅行も盛んになり旅行会社が企画する外国旅行から国内旅行に至るまで、たくさんの人々が旅行に出かけ、各旅行会社は売上が急上昇して行き、このような時代背景の波に乗り、私も景気拡大と共に売上を伸ばして行く事が出来ました。
1980年代に入り、日本の基幹産業は自動車産業に変わってからの事ではありますが、名古屋の服部太氏と連携し現在の自動車オークションシステムの基礎を作って行きました。
現在、日本国内に於ける大型オークション会場は各地に展開し、一般的なビジネススタイルで運営されています。
現在、ヨーロッパ・アフリカ・アラブ諸国・東南アジア及び南アジア・オーストラリア・ニュージーランドとロシア(CIS諸国)から、数多くのバイヤーがオークション会場で売買に参加しています。
田村文彦